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Sarita Badi's Story

サリータ・バディのストーリー

​サリータの生い立ちから日本に来るまでの道のりをご紹介します。

(1/9常葉大学に招かれ講義をしました。その内容の抜粋をお届けいたします。)

sarita badi at coffee farm.jpg

バディ族として

生きること

living as a member of badi caste

皆さん、こんにちは。サリータ・バディです。ネパールから来ました。私はバディ族というカースト出身で今25歳です。

まずはじめに私のカーストについてお話ししたいと思います。バディ族はカースト外の最下層のダリットと呼ばれる身分に属し、ネパールの他部族から常に差別を受けています。バディ族は「汚れた、不可触民」と呼ばれており、このような身分の者はカースト上層の人々の家に入ることは許されず、ヒンズー教の寺院に入ることも許されません。もしバディ族の者が公共の水飲み場から水を飲んだとしたら、もうその水飲み場は汚れたと見なされ、そこから他の人たちは水を飲むことをしません。それが不可触民への社会の扱いです。ある人々は私たちより犬を大切にします。私たちのカーストは貧困ゆえにちゃんとした教育を受けることができません。

しかしバディ族の私たちも家族の必要と願いを叶えるために、良い仕事に就き十分な収入を得たいと願います。しかし教育を受ける機会もなく、また身分の低い者として差別され、良い職に有り付けないのが現実です。

私の両親も一生懸命に働きましたが、彼らが得ることができる収入はわずかで、食べることも大変でした。ましてや子どもたちを学校に通わせることは不可能でした。

そんな村で育った私は9歳の時、あるキリスト教の宣教団体から保護を受け、カトマンズの児童養護施設に移り住みました。その村から初めて保護された子どもの一人でした。村から出てカトマンズに着いた日のことはいまだに鮮明に覚えています。たくさんの大きな家、整った道、そしてたくさんの人!にびっくりしました。

カトマンズの児童養護施設から私は学校に通うことになりました。時が経ち、私は自分の家族の状況を考え、自分の将来の夢を考え始め、これはしっかりと勉強せねばと精一杯努力しました。まず私はキャビン・アテンダントになりたいと夢を持ちました。私にぴったりだと思いました。美しく賢い人たちと一緒に私も空高く飛びたい。そして何より私たちバディ族の人間でも、チャンスを手にするなら身分の高い人たちと同じようにどんな職業にでも就く能力を持つ同じ人間だと、人々と世界に示したかったからです。しかし神様は私に違うご計画を持っておられ、私を自分のコミュニティ、バディ族の生活基準を向上するために働く者にと召してくださいました。私の姉のシータ・バディは児童養護施設から私を連れて自立し、日本からの支援を受けて独自に新しい児童養護施設を設立し、バディ族がバディ族に手を差し伸べるという新しい試みをスタートさせました。私も姉と共にそこで寮母として精一杯働きました。

さて、ここから私がどうして日本に来ることを選んだかをお話しします。私は25歳で大学にも行っているとお伝えしましたが、ネパールで仕事を得ることができませんでした。何度も何度も挑戦し、仕事を探し続けましたが、どこも私を受け入れてくれる場所はありませんでした。ある日、私の姉のシータがモデルオーディションのリンクを送ってきました。姉は私にチャレンジするように言いました。

「あなたは十分に美しい。あなたにならできるよ。」と、彼女は必要書類を書き上げ応募したのです。姉からの勧めでしたが私は書類審査に受かり、オーディションを受けることになりました。

サリータ幼少期.jpg
村に住んでいた時のサリータ

オーディション会場に着くと、皆が流暢な英語で話していて、美しいドレスを着ていました。他の皆に比べて自分自身を見ると、とても不安になり落ち込みました。そして私の名前が呼ばれ、私はオーディションの部屋に入って行きました。

そこには5人の審査員がいて、その一人がマルビカ・スブハという2002年にミス・ネパールに選ばれた女性でした。私が自己紹介をする前に彼女は私の書類を見て、「あなたは本当にバディ族の女の子なの?」と聞きました。そして私は丁寧に、「はい、その通りです。」と答えました。そうしたら彼女はとても喜びました。彼女は私のカーストについての本を読み、私のカーストの現状をもっと知りたいと願っておられたからです。

そして彼女は他の審査員たちにバディ族の現状を知っているか?と聞き、彼らは知らないと答えたので、私にぜひ詳しく教えてくれと頼みました。オーディションは全て英語で行われるものですので、英語力にあまり自信がない私はその話をするならばネパール語で話させてほしいと彼らにお願いし、承諾を頂きました。私は母国語で私のカーストについて私たちバディ族がどのようにして生き抜いてきているのかを話しました。

私の話を聞き終えたマルビカ氏は、私を励ましこう言われました。「このようなオーディションでバディ族の女の子に出会うなんて思ってもみなかった。あなたがそれにチャレンジした最初のバディ族女性です。そしてあなたなら、必ずやり遂げることができます。」と。

自分のオーディションが終わり、他の女の子たちにオーディションでどのようなことを聞かれたかを尋ねました。彼女たちはたくさんのことを聞かれたと教えてくれ、それを聞いて私は自分の部族のことのみ聞かれたことを心から喜び、神様に感謝しました。

それから家(ゴスペルホーム)に帰り、3日後に審査結果を受け取りました。

そこには「サリータ・バディ、あなたは選ばれました」と書かれていました。

その審査結果を受け取った時の喜びと興奮を私はうまく表現しきることができません。私の姉もとても喜んでくれました。しかし問題は今回のオーディションに受かった者たちがコンテストの舞台に立つために受けるべき1ヶ月のモデル特訓に、30,000ルピーを支払う必要があったのです。しかしそのようなお金を私は持っていませんでした。(ネパール平均月給の約3倍)しかし以前に私に日本語を教えてくれていた一人の日本人女性が、そのお金を支払ってくださり私のスポンサーになってくださいました。

このように道が開かれ私はモデルの特訓を受けることができるようになり、その期間、ベストを尽くし励みました。

 

コンテストの結果は残念ながら1位にはなれなかったのですが「ベスト・ウォーク」というモデルにとってはとても価値のある賞を獲得しました。その賞を受賞した私はその後、銀行のモデルをしたり、モデルとして働いていけるようにたくさんのファッションショーにも出ました。しかし誰も私をモデルとして雇うと言ってくれる人は現れませんでした。とても悲しかったです。

 

そんな中で私の家族の状態が悪くなって行きました。私の母も体が弱く、父は鬱で苦しんでいます。父は私の幼い頃から鬱を発症し、薬を飲んでいました。

長年父は一晩でもぐっすり眠ることができていません。彼はたくさんのことを頭の中で考えてしまい、それが彼を病気にします。しかし、父は自分の状態がどんなに深刻になっても、自分の子どものお金を使ってまでして病院に行きたくないと主張し、診察を拒みます。そして自分はそんなに長く生きないのだからと言い、私たちは彼を病院に連れて行くのに説得しなければいけません。今も彼の状態はよくなく、入退院を繰り返しています。現在私の両親二人とも、働くことができていません。私の家族には姉の他に2人の弟がいます。そこでこのような事態を日本にいる私たちのビジネスパートナーであるバディカフェ代表理事のウィリアムズゆり氏に相談しました。

ベスト・ウォーク賞受賞時のサリータ

彼女と教会は、彼女が働く教会の英会話教室にインターン講師として私を招き、雇うことで私が日本に来て働くことができる道を作ってくださいました。私は12月4日からウィリアムズ家にホームスティをし、英会話インターン講師としての訓練を受け始めています。

 

またNPOバディカフェの働きについても少しずつ学んでいます。現在は私の姉がゴスペルホームで14人の子どもたちの寮母して働き、私は病気で働けなくなった両親をサポートするため、またこの一年間日本でたくさんの経験をしてそこから得た知識をネパールのバディ族の女性たちに届けるために働いています。自分の家族も含めた私たちバディ族の将来を良いものに変えていく、それが私が日本に来た理由です。

 

私たちの使命はもっと多くのバディ族の子どもたちを貧しい村から擁護し、ゴスペルホームに住んでもらい安全に守り育て、良い教育を与えることです。また次に大切なことは、彼らが成長した後、良い職を得て行くために職業訓練と就職の機会を与えることです。そのためにゴスペルホーム敷地内にテイラー(縫い物)の職業訓練所を作りました。また私たちはバディカフェ・ネパール店もオープンしたいと願っています。そうすることでバディ族の女性たちを雇うことができるからです。しかしそれを実現させるのにまだまだ十分な資金がありません。

 

引き続き皆さんの愛とサポートが必要です。

どうぞよろしくお願いいたします。

                                 サリータ・バディ

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